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Vol.10 木村清 株式会社喜代村 代表取締役社長


                          木村清
2016/07/13
株式会社喜代村 代表取締役社長 木村清
人は「人の喜び」によって生かされている。
  • 本名
  • : 木村 清(きむら きよし)
  • 生年月日
  • : 1952年4月19日 64歳
  • 出身地
  • : 千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現・野田市)
  • 職業
  • : 株式会社 喜代村 代表取締役社長
座右の銘 : 思いや夢を絶対に捨てるな、諦めるな
座右の書 : 『成功の実現』(中村天風)
尊敬する経営者 : 稲盛和夫
健康法 : 明るく楽しく元気よく、バリバリ仕事をすること
経歴
1952年 : 4月19日千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現・野田市)生まれ。
1967年 : 中学校卒業後F104のパイロットを目指し、
15歳で航空自衛隊に入隊
: 18歳で大検に合格
中央大学法学部(通信教育課程)に入学
航空操縦学生になる資格を得たが、事故で目を患いパイロットを断念
1973年 : 自衛官を退官
1976年 : 中央大学在学中、百科事典のアルバイトなどを経て、
大洋漁業(現・マルハニチロ)の子会社である「新洋商事」に入社
1979年6月 : 独立し、喜代村の前身となる「木村商店」を創業
木村商店で弁当屋、カラオケ店、レンタルビデオ店などを経営
90以上の事業展開を成功させるも、バブル崩壊に伴い全ての事業を清算
手元に残った三百万円を元手に、寿司店『喜よ寿司』を開店
2001年4月 : 築地場外に日本初の24時間営業・年中無休の寿司店
『すしざんまい本店』を開店
その後、店舗を続々と拡大し、日本各地に50店舗を展開する。
一大チェーンを展開するまでに至る
経歴 : 経歴

まえがき

全国に“すしざんまい”を展開する、「すしざんまいの社長」。築地市場の初競りで、史上最高値で本マグロを落札した「マグロ大王」。両手を大きく広げたお馴染みの「すしざんまいポーズ」、そして見る人までを笑顔にしてしまう満面の笑顔。どこに居ても、ひときわ存在感を放つ木村清さんは、お寿司好きな方で無くても知っている人は多いことだろう。そんな木村清さんは現在御年64歳。マグロ大王としてのインパクトが強い木村さんだが、すしざんまいの第一号店を築地にオープンしたのは、わずか15前の2001年、木村さん49歳の時である。では、それまでの木村さんの人生はどのようなものだったのだろうか!?

<すしざんまい展開前の木村清さんの略歴>

・1952年4月、千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現・野田市)で農家を営んでいた家族の長男として生まれる
・4歳の時に交通事故で父親を亡くす
・女手一つで3人の子供を育てながら、借金を返す母親を支えるため、小学校に上がる前からアルバイト生活
・中学時代は5教科で学年トップになるほど成績優秀だったが、実家の経済状況から高校進学を諦める
・父の葬儀の日に見た戦闘機のパイロットを目指し、卒業後自衛隊に入隊
・交通事故で目の調整力を失いパイロットの道を断念。5年9か月で退官
・入院中に知り合った看護婦さんと、その後結婚、生涯の伴侶となる
・司法試験に挑戦。学費を稼ぐため、百科事典の訪問販売などアルバイト生活を送る
・営業成績の新記録を樹立するが、給料に反映されず失望し退職
・大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)入社/水産業界に関わることになる。
・独立、1979年喜代村の前身となる「木村商店」を設立、90以上の事業を展開する
・バブルの崩壊/メインバンクからの裏切りにあいすべての事業を清算
・手元に残った300万円で再出発、わずか10坪の「喜よ寿司」を築地にオープンし大人気店となる
・2001年4月すしざんまい第一号店を東京築地場外市場にオープン、わずか40数席で年商10億円を達成
この様に木村さんの半生は、「すしざんまい」の歴史だけではとても語りつくすことが出来ない凄まじい内容だった。今回のインタビューで、お話いただいたさまざまなエピソードには、木村さんの“人としての魅力”、そして「すしざんまい」を大成功に導いた経営手腕と、すべての逆境をチャンスに変え、それを乗り越えてしまう、圧倒的な「行動力」・「負けじ魂」に満ち溢れていた。自ら創った「ざんまい流」を以て、世界中でさまざまな課題を解決。そして、日本が誇る食文化「寿司」を広げ続けている匠の言葉を、ぜひご一読いただきたい。

木村清さん インタビュー

Q:少年時代の思い出について。

少年時代の思い出で強く記憶に残っているのは、小学校に上がる前から始めていたアルバイトです。私の実家は江戸時代から続く旧家で、私も何不自由なく育てられていた“らしい”のですが、物心がつくかつかないかという時(4歳になる直前)に、交通事故で父が亡くなり、母は女手一つで3人の子どもを育てながら、借金を返済する生活を余儀なくされました。母はそんな状況にありながらも、「先祖代々受け継いだ土地は一反歩たりとて減らすわけにはいかない」との考えのもと、自分達でしっかり稼いで借金を返す!と覚悟を決め、また「五体満足でいられるのだから、そのことに感謝できる人間にならないといけない」と、いつも私たちに言って聞かせました。そんな母を助けるため、小学校に上がる前から、1日2反(600坪)の畑を耕し、600円の小遣いをもらい、うさぎやニワトリを育てては売り、卵も売りました。秋にはイナゴ捕りをして、1キロ300円で買い取ってもらい、ビール瓶や一升瓶を回収、きれいに洗って酒屋に買い取ってもらうなどして、一生懸命家計を助けました。小学校2年からは新聞配達も始め、これは中学を卒業するまで続けました。そして小学校三年生からは、同級生の父親が支配人をやっていたゴルフ場でキャディのアルバイトも始めました。力道山もやってくるような名門クラブで、これが大きな“収入源”となりました。小学生になぜそんなことが出来るのか?と疑問に思う人もいるかもしれませんが、戦後の貧しい時代には、働いて家計を助ける子供は珍しくはなかったのです。「働く」ということはどういうことなのか?私はこのような少年時代のアルバイト経験を通して、一つ一つ学んで行きました。

Q:戦闘機「F-104」のパイロットという夢

父の葬式の最中、みんなが泣いているところにいたくなくて、私は外に出ました。ふと空を見上げた時に飛んで行った、真赤な戦闘機「F-86セイバー」に魅了されたことがそのきっかけです。その機体のかっこよさが脳裏に刻まれ、子供心に「将来、パイロットになりたい」と思ったことを覚えています。私は中学校三年生の時には、五教科で学年一番の成績を取るほど成績が良く、地域で最優秀・県内でも屈指の進学校に入学できると言われていましたが、高校に通える環境ではなかったため、先生のアドバイスもあり、自衛隊に入隊することを決意しました。埼玉県熊谷市にある航空自衛隊第4術科学校生徒隊です。当時15歳、過酷な航空自衛隊生活の始まりです!

Q:5年9ヶ月の過酷な自衛隊生活

今の若い人には想像できないかもしれませんが、当時の教官や大隊長は、第二次大戦を生き抜いた人達で、体罰なんて当たり前。朝6時の起床、ラジオ体操から始まり、腕立て伏せ、歩伏前進、銃剣道に空手など、訓練は筆舌に尽くしがたいほど厳しいものでした。おかげで、入隊して1ヶ月半で腕立て伏せが1000回できるようになりました。途中で地面に腹がついたり、新人100人のうち、1人でも駄目だったら最初からやり直しです。軍歌も1番~30番くらいまで覚えさせられるのですが、教えてもらえるチャンスは就寝時間の前に先輩が唄う一回だけ。それで唄えないと、翌朝に1.5キロをダッシュで走らされます。少しでもペースを落とすと「遅い!」と怒鳴られ、またやり直し、だいたい5回くらい走らされます。人間とは不思議なもので、そんな過酷な状態が毎日のように続くと、ある時から1000回の腕立て伏せも、何十キロを走るのもそれほど苦しくなくなり、また先輩が唄った歌が、すべてパッと頭に浮かんでくるようになってくるのです。人間は極限状態になると、ものすごい力を発揮することを実感しました。

Q:交通事故、初めての挫折

戦闘機のパイロットになるために入った航空自衛隊ですが、来る日も来る日も腕立て伏せばかり。そこで先輩に「いつになったら、飛行訓練ができるんですか?」と聞くと、先輩はあきれ返った表情で、「俺達は乗れないよ。だって俺達はトンツー(通信兵)だもん。」とこう言われました。後から聞いて分かったのですが、入隊させるために、新人全員に「君たちはF-104に乗れる」と言っていたのだそうです。パイロットになるためには、大学に入学し、航空機の操縦学生になる必要がありました。私はより早く資格をとるため、自衛隊で働きながら猛勉強し、二年半で競争率30倍とも言われる大学入学資格試験検定に合格しました。それにより、空曹候補生の資格を得たはずでしたが、それでも「前例がない」という理由でパイロットの部署ではなく、コンピューターを扱う部署に回されてしまいました。

いつかチャンスが巡ってくる!と信じ、パイロットになるために朝晩10キロほど走って身体を鍛えていた時のこと。航空自衛隊に入って4年目、三等空曹の時のことでした。ある日、三重県津市の笠取山分屯基地に向かって走っていた時、カーブのきつい道路で突然トラックが現れ、荷台に積んでいた信管が落ちてきて、頭に怪我を負いました。その影響で目の調整力が低下してしまい、パイロットの夢を断念せざるを得なくなったのです。「運命は過酷だ。」と己の不運を嘆き、失意の中で5年9ヶ月間お世話になった自衛隊を退官することを決意したのです。

しかし、この交通事故には「不幸中の幸い」がありました。
事故の後に入院した三重の樋口病院で担当してくれた看護婦さんと親しくなり、
やがてその女性が生涯の伴侶となってくれたのです。
1974年6月に私たちは結婚しました。

Q:金を貸した人に逃げられ無一文、バイト生活に突入

自衛隊の人間は訓練の過酷さから、退官することを冗談交じりに「娑婆に出る」と表現します。20歳で“娑婆”に出た私は、それまでの給料や、預金の利息68万円で株に投資しました。証券会社の担当者には止められましたが、二ヶ月半くらい経った頃に新聞を見たら、購入した株がなんと275万円に増えていて、直ぐに全部売りました。75万円はパ~ッと使ってしまいましたが、残りの200万円で何をするかを考えました。その当時、モーテル経営に興味があった私は銀行に相談し、田舎で26棟くらいを経営している方を紹介してもらいました。ベッドメイキング・清掃などの仕事を自衛隊で経験していた私は、社長に気にいられ、しかも社長自身が最初に手掛けた六階建てのモーテルを300万円で譲ると言ってくれたのです。「これは投資すべきだ」と考えた私は実家に帰り、足りない分の100万円を母に借りに行きましたが、「貸すよ。けれど、もううちの敷居はいっさい跨ぐな。モーテルをやらすためにお前を育てたんじゃない。」と言われました。母を悲しませてしまったことを痛感し、モーテル経営は断念しました。では、その200万円をどうしたのかというと、ある人から頼まれて、お金を貸したらそれっきり。お金が返ってくることはありませんでした。私は、再び目標と共にお金も失いましたが、ある先輩から「今できることを精一杯やれよ」との励ましを受け、司法試験に挑戦することを決めました。

Q:百科事典の訪問販売で商売の魅力を知る。そして築地へ。

学費を稼ぐため行ったいくつかのアルバイトの中で、とりわけ印象に残っているのが、百科事典の訪問販売です。勇んで販売を始めたのですが、1ヶ月半はどうやっても全く売れませんでした。団地に行っても戸建てに行っても全くダメ。訪問件数を倍々で増やしても駄目。周りの同期も同じです。少ない固定給+出来高払いでは、まったく収入にならず1ヶ月後には2人しか残りませんでした。そんなある日、コッペパンを買うお金さえなく、もう諦めようと思い公園のベンチで売れない百科事典を見つめていた時のこと。近くで遊んでいた子供達がのぞきに来て、色々と質問をしてきます。それに答えて、子供達と問答を続けていると、子供たちの母親もやってきました。そしてなんと「購入したい」という方が現れたのです。「これはサンプルですので、ホンモノをお持ちします。」と、翌日会社から持参して駆けつけたところ、「購入したい」という近隣の奥さまが6~7人も集まっていました。これにはビックリです。これを機に、母親たちの間で評判になり、注文が相次ぎました。結果、1ヶ月半でなんと500巻以上も売れる新記録を達成しました。この経験は非常に貴重なもので、「モノを売る」ことの意味を学びました。「売ろうとしても売れない、商売はいったいなんなのだろう」と真剣に考えるきっかけにもなり、商売の魅力に引きこまれました。ただ、せっかく売れるようになったこの仕事も、会社から適当な理由を付けられて、給料は据え置かれてしまったため、頑張る甲斐がなくなり、他の道を探すことにしました。

職安を訪ねた私は、大洋漁業(現、マルハニチロホールディングス)の子会社、新洋商事でアルバイトとして働き始めます。その時の私には想像もできませんでしたが、これが水産業界との長いご縁の始まりです。

Q:独立し、喜代村の前身となる「木村商店」を設立、90以上の事業を展開

新洋商事では、「商品価値がない」と捨てられていた、小さな魚の切り身をスライスして売ったり、イカの耳をすり身にして売ったりと、「どうしたら売れるか」「どうしたら人に喜んでもらえるか」そればかりを考えていました。そして何かを思いついたらすぐに実行しました。ひとつ成功すると、そこからヒントを得て、さらにアイディアが浮かんでくる。毎日この繰り返しです。当時はちょうど冷凍食品が流行始め、冷凍食品を使った病院食や給食、居酒屋向けの食材・メニューが当たり、売れに売れました。新たに提案した、大箱でたくさんのメニューを出す居酒屋(今では主流の大型居酒屋の走りのようなお店)経営も成功するなど、どんどん結果に繋がり、商売の面白さにハマっていきました。

しかし、出る杭は打たれると言うことでしょう。当時の会社組織の中で“やりすぎ”てしまったのか、2年9ヶ月で新洋商事を離れることになり、その後独立しました。1979年、27歳のことです。
「今あるものより、いいものを提供する。自社で開発する。」をモットーに片っ端から事業に着手しました。寝る間も惜しんで、水産物のパック売り、弁当屋、海外生産、マグロの輸入、市場初となる温かい弁当の販売から、レンタルビデオ店、ビリヤード場、カラオケ店、コンテナでスナック経営、不動産事業まで、90以上にもおよぶ事業を展開することになります。どの事業もそれまでに無かったものばかりだったため、進めて行くうえでさまざまな障壁が立ちふさがりましたが、自衛隊時代に叩き込まれた「負けじ魂」のおかげで、負けずにやれたと思っています。若い時にとことんまで必死になって、取り組んだことは、やがて自分の身になり、武器になります。私自身、そういう経験をたくさんすることができました。

Q:バブルの崩壊/メインバンクの裏切り/会社清算

今から二十数年前、バブル経済が弾けた時、私はメインバンクに裏切られました。バブル当時、総額で百数十億円の借入金がありましたが、バブルが弾けると「返してくれ」と言ってきたため、残り数千万円になるまで返済をしていた時のことです。当時すでに中国でのビジネスに着手していた私は、別の銀行に融資の相談に行ったところ、「木村さんはブラックリストに乗っているので、お貸しできません。」と言われ、驚きました。詳しく事情を聞くと、元金も金利も払っていない融資先として、リストに載っています。しかも「整理回収機構行き」。 よくよく調べて、ひどい真相が判明しました。メインバンクが返済中の融資金と、新たな借入金の一括返済を求めて来ていたのです。私はそんな要求があったことさえ知らず、しかもわざわざ私が海外にいる時に、女房に手形の書き換えと偽って、一括返済の書類にサインをさせる!という、とんでも無く酷い手口でした。その「一括返済」の文言は、何センチもある分厚い書類の束の中にほんの小さな字で書かれています。
私たちはたちまち、人生最大のピンチを迎えてしまいました。

長い付き合いのあった銀行の仕打ちに、怒りよりもむなしさを覚え、また苦楽を共にしてきた女房を泣かせてまで続けるものではない、と考え、事業の整理を始めました。独立を志望する者には独立させ、パートナーや友人にも集まってもらい、事業をそれぞれ引き取ってもらいました。

Q:仲間達からの寄付!どん底からの再出発について

そんなある日、私は仲間達に誘われてゴルフをしました。楽しくラウンドを回っていると、女房から連絡があり、「知らない人からお金がバンバン振り込まれてくる」と言います。始めは何かの間違いかと思いましたが、真相はゴルフを楽しんでいた仲間達みんなが、「木村さんのマグロの夢のために使ってほしい」と、寄付をしてくれていたお金だったのです。額にして数百万円。しかも借用書もなにも要らないというのです。これは涙が出るほどうれしかった。仲間から預かったお金でアイルランドに向かいマグロと格闘。釣れたマグロは応援してくれた人たちへ振る舞いました。

事業の清算後は、しばらくは女房とゆっくり過ごそうと考えていましたが、
「いい仲間がいるんだから、事業を続けてよ。おとうさん!」と言ってくれ、再起を決意しました。
たくさんあった事業を清算し手元に残ったお金は300万円。そのうちの200万円を使って、わずか10坪/およそ18席の寿司屋を創りました。回転ずしよりも高品質で低価格、そして一般の寿司屋よりも明朗会計。「良いネタをどこよりも良心的な価格でお客様に提供する」がコンセプト。これこそが、すしざんまいの前身となる「喜よ寿司」の始まり。1997年のことです。

Q:そして2001年、すしざんまいが誕生

おかげさまで「喜よ寿司」は、多くのお客さまに支持され、たちまち行列ができる人気店となりました。そして2001年の4月、「築地を元気にする」という目的で、すしざんまいの第一号店が誕生します。場所は築地場外市場のど真ん中!やるからには、今までに無かったお寿司屋さんを創ろうと、業界初の24時間営業・年中無休と、「入りやすさ、食べやすさ、質の高い接客」を実現するために、さまざまな挑戦をしました。おかげさまで、たちまち「行列のできる店」と呼ばれるようになり、大成功を収めることができました。わずか35坪・40数席のお店が年間10億円の売上げを記録したのです。その後、お客様からのご要望もあり、繁華街にも出店を開始しました。ですが、出店目標は持たず、出店のペースも決して急ぎません。「常に満席&行列の出来るお店」を目指して、24時間営業・年中無休を支える、きちんとした人材と開店資金が揃うまで出店しないからです。そして、じっくりと見極め、決断したら「一気呵成」に出店します!また、2010年に地方一号店となった「福岡天神」をはじめ、日本全国にある地方店では、「日本全国に築地の味をお届けしたい」との想いから、どの土地でも敢えて「築地スタイル」で展開しています。各地の食文化との違いでお客様から厳しいご意見をいただくこともありましたが、スタイルを貫くことで徐々に築地のスタイルが評価され、受け入れていただけるようになったのです。

Q:売上の3割はマグロ!だれもやったことが無い独自の調達方法とは!?

私にとって「マグロ」は何よりも特別な魚です。「すしざんまいと言えばマグロ」と思ってくださるお客様もたくさんいらっしゃるように、売上の実に3割はマグロです。その期待に応えるべく、美味しく!安全で!高品質な!マグロの「安定供給」を実現できるように、すしざんまい独自の仕入れシステムを構築しています。それは、世界中にある良いマグロの漁場を持つ国の人達と力を合わせて、“いっしょに漁業を展開する”ことで実現してきました。

「海外のマグロよりも大間がいちばん」とおっしゃる方もいます。大間のマグロが美味しい!それは間違いありません。しかしながら、マグロは回遊魚で、一年間でなんと3000キロ~5000キロも泳ぐのです。そのため私は、マグロが回遊する“先”に行き、世界中から良いマグロをあつめて厳選して供給することを第一に考えています。

2014年の11月、国際自然保護連合(IUCN)は、太平洋のクロマグロを“絶滅危惧種”に引き上げました。太平洋のクロマグロの8割が日本で消費されている事実をとっても、これは非常に大きな問題です。日本でマグロ漁といえば、豪快な一本釣りが主流ですが、海外ではそんな悠長なことはしません。回遊するマグロを一網打尽にすべく、巻き網漁を行い、一度で数千尾ものマグロを獲ります。一見合理的に見えるこの方法ですが、多くのマグロが「焼け」や「身割れ」を起こしてしまうほか、出荷サイズに満たない稚魚までを獲ってしまうため、マグロの生態にも大きな影響を与えてしまいます。こうした状況を目の当たりにしてきた私は、近い将来、マグロが絶滅の危機に瀕する事を予想し、それを回避するために、マグロを「生簀」の中で生産調整する「備蓄」という方法を考えてきました。この構想を聞いた水産業者たちは、「不可能」「できっこない」と相手にもしてくれませんでしたが、負けず嫌いな私は、一人で研究し、最適な方法を試行錯誤しました。そしてついに、アイルランドの方で捕獲したマグロを最も天然に近い環境=海上に作った巨大な生簀で育て、産卵を起こさせ、また育て、生産調整をしながら出荷させる「備蓄」の仕組みを完成させたのです。この方法は、自然の力で大きく育ったマグロを生簀に入れ、産卵させて漁獲資源を増やし、自然に返しながら、出荷をコントロールできる画期的なものです。北大西洋ではクロマグロは、もはや絶滅危惧種ではありません。

Q:マグロ大王がソマリアの海賊を退治とは!?

先ほど、世界中にある良いマグロの漁場を持つ国の人達と力を合わせて、いっしょに漁業を展開しているお話をしました。最近、インターネットで、私がソマリアの海賊を撲滅した話が話題になっているようですが、このことに対する根本的な姿勢もいっしょです。
ジプチ共和国からほど近い、ソマリア沖はキハダマグロ、バチマグロの世界的な漁場ですが、1990年代に始まった内戦から、ソマリアで海賊問題が勃発し、2004年に起きたスマトラ沖の大地震で壊滅的な打撃を受けたことで、2005年頃から海賊被害がさらに拡大してしまいました。それを危惧した各国の軍隊は、ソマリアに艦艇や哨戒船を派遣して警備にあたりました。こうした活動ももちろん必要なのですが、海賊を銃で警告して退避させても、そもそも彼らが「海賊にならざるを得ない状況」を解決しなければ、また海賊に戻るだけです。海賊が出ないための防衛を自衛隊が行う一方で、民間の人達には「彼らの暮らしを創る」ことが必要なのです。そこで私たちは漁業を通して、彼らの生活を創ることを考えました。漁民たちに必要な設備が無く、また獲った魚を売る先が無い状況が把握できたため、ジプチ共和国の政府と漁業分野の合意書を交わし、漁民達に必要な船や設備を提供し、漁業指導を行い、三年間を掛けて、現地の人達に魚を獲ってもらって、それを私たちが買うための仕組みを創ってきました。そうした努力の甲斐もあって、「海賊なんかするよりも、そちらの方が良い」という人が増えてきました。今はまだ採算が取れる水準ではありませんが、将来的にはきちんと利益が出る目算は立っています。これが「ソマリア海賊退治」の実態です。おかげさまで、これまでの活動を認めていただいて、ジプチ政府からは2013年に勲章をいただきました。これは、私の宝物です。

Q:ホンモノの寿司文化を世界に!

2013年の12月、和食がユネスコの無形文化遺産に登録されました。とても嬉しく思うと同時に、和食に携わる人間として、大きな責任を感じています。世界の人にとって、和食とは魚、とくに生魚とご飯を意味しています。寿司についても「SUSHI」として完全に定着しているため、それを誇りに思うのは良いのですが、その反面本物の日本食を知らない人がまがい物の日本食を食べて喜んだり、なんちゃって寿司を出してしまう現状もあります。世界の注目を集める様になった今だからこそ、今一度謙虚に見直す時期に差し掛かっていると思います。 そこで何よりも重要なのが、人材育成です。2006年に開校した寿司職人養成学校「喜代村塾」もその一環で、それまで、「寿司屋での修行は十年」と言われてきた修行期間を二年間に集中し、寿司職人を育て上げる教育カリキュラムを組んでいます。もちろん、修了した時点では「カウンターにたてます」と言ったレベルで、一流の寿司職人として成長するためには、それからの本人の努力次第です。これまで400人以上を送り出し、国内・海外にも人材を輩出しています。社員以外も受講を可能にし、とても採算は合いませんが、寿司業界を盛り上げるため、これからも続けて行きます!今後、「喜代村塾」は海外にも作りたいと考えています。

マグロの調達だけでなく、世界の各国々で人材も育成し、現地で雇用を生み、現地の方に経営の仕方も学んでもらい、フランチャイズで店舗展開をする。私たちにゴールは無く、お客様からのニーズがある限り、その期待に応え続けます。

Q:最後にこれから様々な業界で活躍する次世代に一言

人は「人の喜び」によって生かされています。人を幸せにすることに大きな喜びとやり甲斐を感じて、どうか大きく成長してください!「なんのために生きるのか」「なんのために働くのか」、それを自分自身で考え、意識が明確な人は必ず大きく成長を遂げると思っています。私は男性・女性関係なく、「一生懸命に頑張る人間」に期待しています。そういう人の努力が報われるような社会であることを願っています!

<記者:HIDE>

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