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Vol.9 斉藤 りえ 作家・政治家


                          斉藤 りえ
2015/10/30
作家・政治家 斉藤 りえ
難題無き人生は、無難な人生。難題有る人生は、有難き人生。失うことで、人は大きくなれる。
  • 本名
  • : 斉藤 りえ (さいとう りえ)
  • 生年月日
  • : 1984年2月3日 31歳
  • 出身地
  • : 青森県
  • 職業
  • : 作家・政治家
経歴 : 1歳の時に病気により聴力を完全に失い、聴覚障害者となる。
: ハンディキャップを持ちながらも「人と関わることが好き」という信念から様々な接客業に挑戦。銀座の高級クラブ勤務時に、筆談を生かした接客で「筆談ホステス」として話題になる。
: 半生を描いた書籍『筆談ホステス』はドラマ化もされ、“障害者と社会”について考えるきっかけになったと高い評価を得る。
: 2015年5月より東京都北区議会議員。
: 2020年東京パラリンピックに向け、「心のバリアフリー」を実現すべく活動中。
趣味・趣向 : お散歩:娘と北区の商店街をぶらり歩き。
: ピクニック:自然に触れ合う中で読書したりすること。
: 読書:読書は、週に2冊。
: バレエ、ミュージカル鑑賞:小さい頃、母によく連れてこられ、以来ずっと憧れ。従姉妹達がバレエダンサーや劇団四季で活躍しているのが誇らしい。
: 旅行:旅先で、お買い物、ボーッとノンビリすること。
: 好きな本:最近の中では『大切なことに気づかせてくれる33の物語と90の名言』※西沢泰生
: 尊敬する人:母親
: 座右の銘:塵も積もれば山となる
塵のようなとても小さなものでも、積み重なれば山のようになる。
だから、どんなにささないことでも、決して疎かにしてはいけない。
: 悩み事:障害者の活躍がまだまだ難しいこと
出版書籍 : 2009年5月22日:『筆談ホステス』 (処女作) 光文社
: 2009年9月18日:『筆談ホステス62の愛言葉』 光文社
: 2010年8月:『母になる』 光文社
: 2010年8月:筆談ホステスマンガ 光文社
テレビ出演 : ひるおび
: 中居正広の金曜日のスマたちへ など多数…
雑誌出演 : cancan
: 女性自身 など多数…
ドラマ化 : 北川景子出演 筆談ホステス〜母と娘 愛と感動の25年届け私の心
その他 : 元青森観光大使
: 現在、講演会講師、新刊を執筆中。

まえがき

Grateful-Japan9回目の取材にして、初めて女性の“匠”をご紹介する。
小柄でスマート。やさしい笑顔が印象的な、とても美しい女性だ。
その女性は、23歳の時に故郷である青森から単身上京し、銀座の高級クラブでホステスとしての道を歩み始めた。独自の接客方法が多くの顧客から支持され、瞬く間にナンバー1の地位にまで上り詰める。自身の半生を描いた書籍はベストセラーとなり、有名女優の主演でTVドラマ化までされた。26歳の時に第一子となる女児を出産し、シングルマザーとなる。仕事と子育てを両立させながら2015年に政治家の道を志すことを決意。同年の4月、31歳の時に東京都北区議会議員選挙に「日本を元気にする会」公認候補として出馬、過去最多となる6630票を獲得しトップ当選を果たす。現在、東京都北区議会議員として精力的な活動をする傍ら、作家として執筆活動も続け、10月20日には新書も出版された。

ここまで話を聞いただけでも、31歳にして既にもの凄い経歴と実績の持ち主である。銀座高級クラブのホステス、作家、そして政治家。その女性が歩んできた道は、どれも一流しか生き残れない厳しいプロの世界だ。そんな世界に生き、これらのことを成し遂げてきたのが、実は「健常者」ではなく、一歳の時に病気により完全に聴力を失った「聴覚障害者」である、という事実を皆さまは信じられるだろうか?
音が聴こえない世界では、相手の声だけでなく自分の声も耳に届かない。人とのコミュニケーションが極めて困難であることは容易に想像ができる。障害を持ちながらも幼少の頃から「人と関わること」が好きだったその女性が、母親と二人三脚で普通では想像もつかない努力(※ご本人はそう語らない)をし、手に入れたコミュニケーション手法=言葉が「筆談」だった。そう、今回ご登場いただくのは、ご自身の半生を描いた著書「筆談ホステス」がベストセラーとなった、斉藤りえさんその人だ。
メディアに出演されていた際に斉藤りえさんを知り、その生きざまに感銘を受けた筆者が、斉藤さんのオフィシャルサイトから取材オファーをしたところ、直ぐにご快諾をいただいた。「人の心が聴こえる街に。」と政治家としての想いをつづる斉藤さんは、常に人の声を聴く姿勢でいるようだ。

インタビューでの斉藤さんの回答は「筆談」ではなく「発声」だった。

インタビュー当日、筆談経験が初めての筆者に配慮してくださり、最適な環境をご用意いただいていた。場所は北区区役所の応接室。筆者がマイクを通して話したことが、斉藤さんが用意したタブレット端末に反映され、その内容を斉藤さんが確認して答えてくれる。斉藤さんからの回答はすべて「筆談」と想像していたが、驚いたことに、ほとんどの回答は斉藤さんご自身の「発声」だった。その言葉の明確さと言えば、初対面だった筆者にも斉藤さんが仰っていることの殆どを十分理解することができるもの。自分の声が聴こえない中で、「発声」することに対しても大変な努力をされてきたことをその時に認識した。

一の言葉で、十のことを伝えてくれる“筆談”

インタビューの中で、斉藤さんが筆談を用いた場面は3回あった。 筆者が「これだけは必ず聞こう」と用意していた質問に対する斉藤さんからの回答で、書かれた内容はどれも漢字を含む、短文かもしくは漢字一文字。それで十分だった。斉藤さんは自分の想いを、一文字の漢字や短い文章に表現して、明確に伝えることができる。気持ちを伝えるために、ついついたくさんの言葉を発してしまう筆者とは根本的に違った。そんな斉藤さんの半生を振り返ったメッセージ。ぜひご一読いただきたい。

斉藤りえさん インタビュー

Q:「聴覚障害」と向き合い、努力されてきたこと・苦労されてきたことは。

苦労したのは私よりも母親の方だと思います。私に言葉の概念や話し方を教えてくれたのは、全て母親です。聴覚障害者が言葉を理解し、話せるように訓練をするのにはその前提として大きく二つのケースがあります。もともと健常だった人が、あるタイミングから聴覚を失った場合と、私の様に物心付く前・もしくは生まれつき聴覚がない場合です。後者の場合は「音」や「言葉」の記憶が一切残っていないため、言葉の概念や発言方法もすべて「目」で見て得た情報から覚えていく必要があります。耳が聴こえない当事者も大変ですが、教える側にも大変な苦労があると思います。母親にとってもわからないことだらけの中、何とか私に言葉や発生のコツを覚えさせるために、様々なツールを用意してくれました。「あ・い・う・え・お」と書かれた文字のカードや、「1・2・3・4・5…」と書かれた数字のカード、動物など「絵」と文字が掛かれたカードなどです。それらを用いて、同じ鏡を見ながら大きく口を動かして、文字や数字・絵の意味を結びつけて理解するために、発声方法を工夫しながら一つ一つ親身に教えてくれました。これは後から知ったことですが、私のように物心付く前から聴力の無い人が、「発声」で会話ができるようになることはとても稀なことだそうです。母親は私の障害を「自分のせい」だと思ってしまっていて、そのことに対して私も申し訳ない気持ちでしたが、私が聴覚障害を克服することが出来たのは母親の献身的で一生懸命な教育のおかげだととても感謝しています。

Q:幼少期・思春期の斉藤さんについて。

私が育った青森県青森市は、色んなものを見て経験することができる素敵な場所でした。四季それぞれに都会では経験できないような楽しい遊びがあって、また周囲の大人たちも子供にいろんなことを教えてくれる、人の温かみが感じられる街でした。例えば、海に行けば釣りをしているおじさんが竿を貸してくれて、その場で釣りを教えてくれたり、夏にはカブトムシやクワガタの獲り方を教えてくれたり。そんな場所で、両親は耳が聴こえない私を色んな経験でも補って行こうと、たくさんのことを経験させてくれました。健常な子供以上に習い事もさせてくれて、色んなところに連れて行ってもくれた。そして耳が聴こえない友達だけではなく、健常な子達とも接する機会をどんどん与えてくれたので、私に障害者であることのコンプレックスはほとんど感じませんでした。
ですが、中学校のころから聴覚障害を持っている私を心配する母親と、健常な子達と同じように遊び歩きたい私とで溝が出来てしまい「心配しすぎ!」とか、「そんなに怒ることないのに!」と両親とぶつかることが増えてしまった時期がありました。時間を気にせず遊んでいる友達が羨ましく、両親の心配を無視して帰るのが遅くなり、そのことを注意されても素直に受け止められず、両親の気持ちを理解しようともしませんでした。荒れてしまっていた時期もあって、両親にはずいぶんと心配をかけたと思います。

Q:「人と関わることが好き」と思えたきっかけは?

高校生くらいまでは正直、「人と関わること」に積極的でなかったと思います。私の障害を理解し、慣れてくれている両親や周囲の人、友達とのコミュニケーションに不便はありませんでしたが、人と接する機会が増えるにつれ、初対面の友達とどう接して良いのかわからず、自分から話しかけることが苦手で、いつも他の友達に代弁してもらっていました。周囲が話していることをわかりやすく伝えてくれるなど、「通訳」もしてくれて、そのことで少しずつ苦手意識もなくなってきました。本当にお世話になりましたし、今でもとても仲の良い大切な友達です。

「人と関わることが好き」と思えたきっかけは、高校生の時に、アパレルショップでのアルバイトに誘ってもらったことです。障害のことにとても理解のある店長さんで、耳の聴こえない私になんと、人生で初めて「接客」の仕事をさせてくれたのです。ただ、自分は耳が聴こえません。目が合っているお客様でも言っている事をきちんと理解することが出来ませんし、目が合っていないお客様からは声を掛けていただいても気付くことができません。それでも何とか、きちんと接客をしようと、自分からお客様のことをよく見る様にして、自分から話しかけることを心掛けました。お客様が欲していそうなこと、求めていそうな案内を考え、説明の方法などを学び、研究しました。その結果、お客様も私を理解してくれるようになり、人と関わっていく仕事がどんどん好きになっていきました。

Q:単身上京、銀座の高級クラブでホステスになろうと思ったきっかけは?

実はホステスの仕事は銀座が初めてではなく、高校卒業後19歳の時に青森でも少し経験していました。その時に「筆談」を使った接客をしたことが私の「筆談ホステス」としての始まりです。


                          その後、東京でOLさんになることに憧れて上京。事務の仕事に就きましたが、ずっと椅子に座って毎日同じ仕事をすることに疑問を感じていました。私は電話対応もできないため、仕事で人と接する機会もあまりなく、自分の中でどうしても仕事のやりがいや楽しさを見つけることができませんでした。そうしているうちに「やっぱりもっと人とコミュニケーションがしたい!」と強く思うようになり、もう一度ホステスをやろう!どうせやるなら日本一キラキラした街「銀座」で始めようと決心したのです。
ですが、満足に会話が出来ない私を「ホステス」として雇ってくれるお店はなかなか見つかりません。そこで助けてくださったのが青森時代のお客様です。その方の知り合いのお店で、しかも銀座の高級クラブに推薦してくださり、憧れだった銀座のホステスになることが出来たのです。ホステスになった最初のきっかけを創ってくれたのは、高校生の時のアパレルショップのアルバイト経験ですが、色んな方の理解や支えが後押しをしてくれたと思っています。

Q:銀座の高級クラブとはどんな世界でしたか?

日本一の街「銀座」は、私にとってお客様もお店の方も本当に器の大きな方が多く、温かい場所でした。お店のお姉さんたちも耳が聴こえない私にたくさんのノウハウを教えてくれましたし、また可愛がってくださいました。色々と厳しいことも言われましたし、時に理不尽なこともありましたが、お客様のことだけを考えて仕事をさせていただけていたと思います。

Q:「筆談」での接客は最初からおこなっていた?

青森でホステスをしていた時に行っていた筆談での接客は最初から取り入れ、いつもメモ用紙とペンを持ちながら接客をしていました。お客様も自分でメモをお書きになり、私に伝えてくださったので、筆談によるコミュニケーションが成立するのに時間は掛かりませんでした。私が注力したのは、とにかくメモをとることです。その言葉の前の会話も記録しておき、そのお客様とのコミュニケーションをしっかり記憶することを重視しました。 筆談でのコミュニケーションをおっくうに感じるお客様ももちろんいらっしゃいましたが、とにかくお客様に心地よいと思っていただける、筆談ならではの対応を考えました。筆談には言葉の会話とは違う楽しみ方があります。言葉での会話は他の人にも聞こえますが、筆談は当人同士だけの特別なコミュニケーションです。また、言葉より気持ちを明確に伝えられることだってあります。

※ここで、実際に行ったお客様との「筆談での会話」を紹介してくれた。


                          お客様がその時のご自身の気持ちを「辛い」と言う文字で伝えて下さいました。それを見た私が、そのメモに「―」を一本足して「幸い」という文字を造ってお渡しし、そのお客様の「辛」という気持ちは、「幸」になる途中であるのではないでしょうか。とお伝えしたところ、大変感激してくださり、ご来店時とは打って変って明るい表情になられたのです。

Q:ナンバー1の座に上り詰めることができた要因をどう振り返っていますか?

私には、たくさんの言葉を話すことはできませんが、たくさんの言葉とその意味を知ることができます。いつもたくさんの良い言葉や漢字に出会うことを意識して、その言葉や漢字を分解してみて、その意味を自分なりの言葉で解釈する努力をしました。そうすることで、その言葉や漢字の持つ意味や使い方が広がり、お客様とのコミュニケーションも広げることができたと思います。また、お客様の方からもたくさんの良い言葉を教えてくださったことで、自分の中でも「筆談」の接客がどんどん楽しくなりました。成長することが出来ているとしたら、それはお客様や周囲の皆さまのご指導のおかげです。

Q:もともとお酒は好きでしたか?

はい、好きです!(笑) でも接客をしている時は、お客様とのコミュニケーションに集中していいて、緊張もしているせいか、まったくお酒に酔いません。自分の中でお酒よりも、お客様との対話を楽しんでいるのだと思います。自宅に帰ってお酒を飲むと、すぐにほわ~っとして眠くなり、完全にスイッチが切り替わったことを実感します。笑

Q:「筆談ホステス」出版のきっかけは?

私自身も筆談での接客を楽しめるようになってきた頃、出版社の方から「本を出さないか?」とご提案をいただきました。自分自身の想いとして「耳が聴こえないことを売りにしてしまっている」様な気持ちになり、正直最初は、前向きになれませんでした。ただ、出版社の方や周囲の方からも、私自身の話を本にすることで、「同じように障害をもっている人に参考になるかもしれない。勇気を与えられるかも知れない。」とアドバイスをいただき、出版を決意しました。

本の内容は、一歳の時から自分がしてきたこと、感じたこと、努力して来たことなど、全てありのままを書きましたが、同じ障害を持っている方からも「勇気をもらった」「励みになった」「とても参考になった」「諦めかけていたけど、また頑張れる」といった、とても嬉しいメッセージをいただくことができました。私の言葉で、人の力になれたことがとても嬉しくて、感激しましたし、出版して本当に良かったと思っています。

Q:政治の世界に入ろうと思ったきっかけはどんなことですか?

耳が聴こえないことで、就職の機会が少なかったり、やる気があってもできる仕事の幅が限られていることにもどかしさを感じていました。私の場合は、たまたま周囲の理解のある方々に助けていただくことができましたが、障害者のチャンスはまだまだ少ないと感じていました。健常の方でも人によって出来ることと出来ないことがあるのと同じで、障害を持っていても得意なことを持っている方はたくさんいらっしゃいます。障害者を排除するのではなく、障害者にもできる可能性を一緒に探す社会を実現したい!という想いをずっと持っていました。ホステスをしていた時から、これは周囲に伝えていたことなので、政治家を目指すことに対して驚く方は少なかったような気がします。笑

Q:選挙活動をする中で注力したことは?

「選挙」というと、選挙カーや街頭演説のイメージが強いと思います。ただ、私自身耳が聴こえないのに、私が言葉で演説をしても、耳の聞こえない方はそれを聴くことが出来ません。私がもっとも注力したことは、有権者の方々に、“筆談が反映された名刺”を直接わたすことです。名刺の裏に「筆談」のスペースを創って、お一人お一人にメッセージを添えてお渡ししました。意外なことにこの手法をやられている方は殆どおらず、他の候補者の方たちが、街頭演説をしている中、私は多くの時間を有権者の方に名刺をお渡しするために走り回っていました。

<斉藤理恵さんの実際の名刺がこちら>

Q:選挙期間中、この名刺を何枚配ったのですか?

選挙期間は約1週間です、その間にだいたい5,000枚配りました。お一人お一人しっかりと目をみて、握手をして、筆談を添えて配りました。私のテンションは常に高かったため、中には敬遠される方もいらっしゃいましたが、どう思われてもとにかく自分の気持ちをお伝えしよう!と決めていました。街頭で私のお話に足を止めて下さる人がいたら、その方の元へ走って行って、しっかりと挨拶して名刺をお渡しします。そうしているうちにたくさんの方が温かい言葉を掛けてくださるようになり、私自身とても勇気づけられました。

Q:初出馬、そしてトップ当選という結果について。

耳が聴こえなくても、健常の方のように上手く発声できなくても、行動と気持ちで多くの方に私の想いを伝えることができたことにとても感激しています。私が当選できたのは、たまたま私が住んでいた場所が北区であり、自分自身が障害をもっていたことも大きな要因ではないでしょうか。北区は他の区に比べて障害を持たれている方が多い区です。障害を持つお子さんが通う特別支援学校も北区内だけで3つもあり(通常は2~3区に一つ程度)、卒業生が働く場所や就労支援なども充実しています。また高齢者も多く「バリアフリー社会」の実現が本当に重要な区であることは間違いありません。そんな中、実際に障害を持っている私が当事者となり、区政に参加することを、前向きに受け止めて下さった方が多かったのだと思います。

私が実現したい政策は、「バリアフリー社会」「女性・子育て支援」「高齢者に優しい街」です。有権者の方からは、「区議会議員にそんなことができるのか?」とか「障害者にできるのか?」といった厳しい言葉を覚悟していたが、実際になってみるとまったく逆でした。障害を持っているお子さんや、そのご家族と直接お話を聴ける機会もどんどん増え、ご理解も深まっていることを実感しています。

Q:政策の実現のために必要なことは?

実際にはまだまだ、課題が多いと思います。障害者には当たり前のことでも、健常の方ではなかなか気付けないことも多く、議員として一般質問をしてみて始めて気づいたことがたくさんあります。周囲の理解を進めて、障害者と健常者の距離、区政との距離を縮めること。当事者の声をどんな小さいことでもしっかり聴いて、確実に行動に移していくことが重要です。小さい事の解決を積み重ねることが大事を成せる唯一の道と考えています。障害を持たれている方々と接するイベントを開催する機会が増えていますが、積極的にご参加をいただいています。開催者である私自身が障害者であるため、ご参加いただきやすいのかも知れません。今後も皆さまが発言できる機会を増やして行きたいと思います。

Q:耳が聴こえないことで公務に不便を感じたことはないか?

議長や周りの議員さん達が、私の聴覚障害をとても気にかけて下さっているので、不便を感じることは殆どありませんでした。例えば「議会」で発言する際に、議長からの指名に気づかずに間が空いてしまうと、議会の進行上、次の人に順番が移り、発言の機会を逸してしまいますが、そういったことが無い様に、事前に発言の順番を知らせてくださったり、複数の議員が同時に会話をする「委員会」でも、私が皆さんの言葉を理解できるように、しっかりと間をおいて話してくださったりと、私が所属する「日本を元気にする会」の方だけでなく、会派の垣根を越えてすべての議員さん達が理解し、協力してくださっているのです。

Q:今後の展望を教えてください。

「バリアフリー社会」「女性・子育て支援」「高齢者に優しい街」を実現することは、北区だけでなく日本全体の大きな課題と考えています。まずは北区からそれを実現し、モデルケースとなることで、他の区にも伝播して行きたいです。

Q:同世代の人・若い人達に向けて一言アドバイスを。

私自身まだまだ勉強しなくてはならないことだらけなので、恐縮してしまいますが、私がいつも大切にしている言葉をご紹介します。※ここで2回目の筆談が登場する。

難題の無い人生は、無難な人生。

難題の有る人生は、有難き人生。

難題があった方が人は学べるし、大きくなれるのだと考えています!
それともう一つ、

失うことで、人は大きくなれる。

前に「失」という漢字を分析してみたことがあって、その時にこの字が「人」と「大」という二つの文字に分けられることに気づきました。

お金や地位を手に入れても、それに固執するのではなく、敢えて手放してみることで、人として更に成長し、新しい機会がやってくるのではないでしょうか。

<記者:HIDE>

Vol.9 斉藤 りえ   作家・政治家
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